オーナーシェフ井桁良樹のイメージ

飄香の魅力

オーナーシェフ井桁良樹

『中國菜 老四川 飄香』のホームページにお越しいただき、誠にありがとうございます。

オープンから17年が経ち、皆様からの温かいご支援のおかげもあって、メディア等で飄香についてお話しする機会も増えてきました。一方、私の主戦場は昔も今も変わらず厨房です。それ故、ご来店いただく皆様とは未だにゆっくりとお話しできないことを心苦しくも感じています。

そこでこのホームページでは、普段なかなかお話しできない飄香の秘密や、私が学んだ四川料理についての興味深いお話しをお届けしています。まずここでは、私自身と飄香のこれまでの歩みについて少しお話しさせてください。

1. 中華料理との出会い

1971年、千葉県で私は生まれました。電気工業会社で働く父と、洋裁を仕事にする母に育てられました。父も母も生粋の日本人で、中華料理との特別な繋がりはありません。

料理への目覚めは早く、物心ついた頃から料理番組を見ては調味料について母親に質問していたそうです。小学生になると父や姉に料理を作るようになり、小学4年生の文集には「将来の夢は野球選手かコック」と書いてありました。視力が弱く喘息持ちの私にとって、料理は自分を一番上手に表現できる手段だったのでしょう。

1977年、小学校入学を記念して市西小学校の百年桜の前で。

料理への強い関心は中学生になっても失われることはありませんでした。高校に入学してすぐに始めたのが、中華料理店でのアルバイトです。これが本格的な中華料理との出会いになりました。特にこのお店のまかないでいただいた回鍋肉の美味しさは衝撃的で、私の人生を変えたと言っても過言ではありません。

たったの1年のアルバイトでしたが、辞める時はとても悲しく、私は思わず泣いてしまいました。そんな私の姿を見たシェフから「料理の世界に進みなさい」という声をかけていただきました。この言葉が「プロの料理人になる」という私の決意に繋がったのは言うまでもありません。

2. 日本での修行時代

高校卒業後、私は迷うことなく千葉調理師専門学校の中華コースに進みました。学んだのは1年間だけでしたが、ここで最初の師匠といえる斎藤文夫さんと出会います。

斎藤さんは日本における四川料理の第一人者である陳健民・健一さん親子のお店『四川飯店』で腕を振るった名料理人です。料理学校の講師としてやってきた斎藤さんの話に感銘を受け、卒業してすぐに斎藤さんのお店で働き始めました。1989年のことです。

1991年、専門学校時代の恩師 斎藤さんのお店『岷江』での修行時代

8年間に渡って斎藤さんのお店で中華料理の経験を積む中で、私は柏市の『知味斎』に憧れを抱くようになります。知味斎は千葉県を代表する中華の名店で、当時の私の実力では入るのが難しいお店でした。しかし私の強い思いを知った斎藤さんが、わざわざ私を知味斎に紹介してくださり、晴れて知味斎で働くことができるようになりました。お店を辞める時まで面倒を見てくれた斎藤さんには、感謝しかありません。

知味斎が私の心を捉えたのは、食材に対するこだわりの強さです。知味斎は野菜を自らの畑で作るほど、食材に強いこだわりを持っていました。またお店には多数の中国人が在籍しており、より本場に近い中華料理が学べると思いました。

知味斎では前菜を担当し、初めて自分で料理を作る立場になります。そこからは何かに取り付かれたように、メニューのことばかり考えるようになりました。休みの日は食べ歩きをし、料理の専門書を読みふける。そんな毎日を送るうちに、「中華料理を極めたい」という気持ちがどんどん強くなっていきました。

結局、憧れだった知味斎を3年で去り、ゼロから再出発する覚悟で中国に渡ることを決意します。既に私は29歳。料理人としては決して若くない年齢でしたが、本場中国に対する強い思いはどうしても捨てきれませんでした。

3. 上海から成都へ

中国での修行にあたって、私は二つの準備をしました。一つは中国語です。しかし中国語はとても難しく、地域によって発音が大きく異なることもあって、残念ながら現地で流暢に話せるまでには至りませんでした。もう一つの準備は貯金です。中国に渡るまでに私は約300万円のお金を集めます。なぜ貯金にこだわったかというと、私がお店にお金を払って働こうと考えていたからです。

お店の立場に立てば、いかに熱意と経験があるとはいっても、言葉もままならない日本人を雇うメリットはありません。賃金を支払うことを考えると、むしろデメリットの方が大きいと思われても仕方ないでしょう。しかし私がお金を払うというのなら、話は変わります。少なくとも無駄な賃金を払うというお店側のリスクは避けられるわけです。

せっかく中国で修行をするのに、雇用条件や賃金で妥協したくはありませんでした。理想の環境で学ぶためには、自分の努力で取り除けるハードルはすべて取り除きたかったのです。だから貯金にこだわりました。

私がまず向かったのは成都ではなく上海でした。それは単純に働く伝手が上海にしかなかったからです。しかし今思えば、最初に上海を経験してよかったと思っています。上海の食文化で学んだことも多く、その一部は今の飄香のお店作りにも役立っています。そして何より、上海料理という比較対象を知ったからこそ、四川料理の重厚さや奥深さを鮮明に理解できるようになりました。

2000年、上海『名城酒楼』での修業時代。
本場中国の味を吸収したくてひたすら食べ歩き、一番太っていた頃。

上海で1年間修行をしながら成都のお店との繋がりを作り、満を持して成都に乗り込んでいきます。その成都で最初に修行したのは、年配の料理人たちが働くホテルでした。厨房には現代的な調理器具もなく、皆とても手間がかかることをしていましたが、そこに息づいていた料理への向き合い方、考え方こそ、まさに成都で脈々と受け継がれている四川料理の伝統でした。この体験こそ、飄香の原点といえます。

2001年、四川『濱江飯店』での修業時代。お店のスタッフと。

2001年、四川『濱江飯店』での修業時代。厨房にて。

成都での1年間の修行を通じ、私は数百以上の料理を作ることができるようになりました。普通に考えれば、短期間でこれだけの数のレシピを覚えることは不可能に近いと思うでしょう。しかし私が成都で学んだのは個々の料理の作り方ではなく、「百菜百味(バイツァイバイウェイ)」といわれる、料理のメカニズムでした。

伝統的な四川料理では、一つの素材を100通りに料理することが求められます。当然、素材本来の味を生かした完成度の高い料理であることは必須条件です。その厳しい基準をクリアするために、基本的な味付けの種類、調理の技法が確立してきました。これらと季節の食材を組み合わせることで、無限のレシピを生み出すことを可能にしているのです。この四川料理の技法を体系的にマスターできたことが、成都で修行したことの最大の成果といえます。

成都の次は香港に渡りましたが、この時点で300万円あった持参金は7万円にまでなっていました。中国での修行もここまでだと思い、日本への帰国を決意。2002年、31歳の時のことです。

4. 飄香の歩み

中国で貯金を使い果たした私は、ほとんど無一文の状態でした。そこでまずある中華料理店でお世話になることになりました。オーナーは私が中国で修行をしている時に声をかけてくれた方で、副料理長というとても良い待遇を与えていただきました。しかし本場の四川料理に魅せられた私はそれでは満足できず、自然と独立を考えるようになりました。一刻も早く独立しようと、本業以外にアルバイトも掛け持ちして開店資金を準備しました。

そこから約3年の準備期間を経た2005年4月。私が34歳の時に『中國菜 老四川 飄香』をオープンします。

私にとって飄香は、生計を立てる手段ではありません。アルバイトで食べた回鍋肉。斎藤文夫さんや知味斎で教わった本格的な中華料理。成都で味わった本場の四川料理。それらに出会ったときの感動や驚きを日本の皆さんにお伝えしたい。その想いを形にしたのが飄香です。私にとって飄香は自己表現の場なのです。

日本で中華料理店を営むなら、餃子やエビチリ、チンジャオロースなど、日本人に馴染みが深い料理を提供した方が事業としては立ち上がりやすいでしょう。しかし私は「お馴染みの中華」を出すつもりはありませんでした。オープンした飄香のメニューには、日本人には分からない料理ばかりが載っていました。日本人が知らない本場の四川料理で驚いてほしかったわけですから、私にとっては当然のことでした。

ありがたいことに、すぐにインターネットを中心に高い評価をいただくようになり、取材される機会も増えていきました。2010年には銀座三越からもお誘いを受け、初めて本店以外のお店をオープンします。そうすると欲が出てくるもので、料理だけでなく、店内のインテリアや器に至るまで徹底的にこだわり、四川省の空気や世界観をより間近に感じ取っていただきながら料理を食べてほしいと思うようになりました。

こうして2012年、本店を麻布十番に移転します。商圏が全く異なり、数々の高級店が軒を連ねる麻布十番への移転は私にとって大きなチャレンジでした。しかしここでも多くのお客様のご支援もあり、本店は飄香の顔としてすっかりと定着しました。

山を一つ乗り越えると次の山を目指したくなる私は、麻布十番本店が落ち着く頃には、「四川料理の由緒正しき継承者になりたい」という気持ちがどんどん大きくなりました。

本場成都でも、新しい料理の波が流れ込み、伝統的な四川料理が徐々に失われつつあります。彼らからすれば外国人であるはずの私がこんなことを思うのもおかしい話ですが、この頃は「伝統的な四川料理を守らなければ」という危機感を強く抱いていました。

そんな思いに押され、2018年4月、伝統四川料理の流れをくむ老舗『松雲澤(ソンユンゼア)』を中心とする「松雲門派(ソンユンモンハ)」に弟子入りしました。実は最初に弟子入りを志願した時には断られ、その後何度手紙を出しても受け入れてもらえず、それでもどうしても松雲門派に入門したかった私は、単身中国に渡り、アパートを借り、直接頼み込むことにしました。そこまでして、ようやく弟子入りがかないました。

一度受け入れると人情厚く迎えてくれるのが中国人です。休みの日には周辺の観光案内をしてくれるほどに親切にしていただきました。そうした数回の修行を終え、晴れて私は松雲門派の継承者として認められました。松雲門派の歴史の中で日本人が門下になるのは二人目ですが、現在日本で四川料理店を営んでいるのは私だけのようです。成都から遠く離れた日本で、四川料理の歴史と伝統を守るという使命が私に課せられました。

松雲門派の継承者に渡される盾

飄香に掲げられている「老四川」とは、「古い四川料理」という意味です。本場成都でも「老四川」の看板を掲げているお店は存在しますが、そういったお店が既製のオイスターソースやケチャップを使うことが当たり前になっています。しかし私は、カキの旨味が必要なら干しガキを使い、トマトの酸味が必要ならトマトから作ることにこだわっています。化学調味料もけっして使っていません。なぜならこれらはすべてかつての四川省には存在しなかったものだからです。こういったこだわりは、本場成都の老四川にも負けないと自負しています。

とはいえ、頑固に伝統を守るだけで人を魅了する美味しい料理が生まれるわけでもありません。飄香は日本のお店ですから、日本の食材や気候を考慮した臨機応変さも不可欠です。

例えば海がない四川省で魚料理といえば川魚が基本ですが、日本は豊富な海の幸に恵まれた国であり、これを活かさない手はありません。しかし、海魚と川魚では肉質などが異なり、同じように調理すると美味しさを損ねることが多いです。つまり、日本の恵まれた食材を使って伝統的な四川料理ならではの味と感動を再現するためには、時には手法に囚われない柔軟さが必要なわけです。「伝統を守り、柔軟に変える」というのは矛盾しやすくとても難しい課題ですが、この難しさこそが、私のモチベーションの源なのかもしれません。

正式な松雲門派の継承者となった私は、まず麻布十番本店のメニュー刷新に着手しました。2018年10月、器やサーブの仕方に至るまで本場のスタイルに合わせた、伝統四川料理における24の味付けを堪能できる新メニューをスタートさせました。麻布十番本店では松雲門派の伝統四川料理をストイックに追及する一方で、より多くの人に伝統四川料理を気軽に楽しんでいただく場として、『老四川 飄香小院』を六本木ヒルズにオープンしました。

2018年11月には私のレシピをまとめた『現代に生きる老四川』という書籍を出版。飄香ブランドのカップヌードルも発売。このように活動の場を広げつつ、麻布十番、六本木、銀座の3店舗では、味もサービスもより一層の磨きをかけていきたいと思っている中で、2020年を迎えます。

5. 四川料理の未来を作りたい

2020年、飲食業界はコロナ禍という大きな試練を迎えました。当然私たち飄香も例外ではありません。3月になると連日の報道で徐々に予約は減り、4月には緊急事態宣言が発令され、お店を営業することができなくなりました。給付金などの支援もありましたが、私たちのように店舗を複数運営している事業者には焼け石に水でした。

一方で市場の変化と新しいニーズに応えるために、デリバリー、テイクアウト、通販を始めました。また、創業以来のお客さまが、飄香を応援するためにしばしばお店に訪れてくれました。

私自身も、この試練に負けるわけにはいかない、と強く思うようになりました。スタッフは誰一人辞めさせない。お店は縮小しない。私たちには料理しかない。だからこそ、この試練を料理の力で乗り切っていきたい。飄香の歴史は挑戦の連続でしたが、守りを固めることではなく、挑戦することによって、新しい歴史を切り開いていきたい。そんなことを考えていると、料理の開発はむしろ捗り、新しいアイデアが次々と湧いてきました。

閉店したり、規模を縮小したりする飲食店が多い中で、飄香は2021年に新しいお店をオープンします。それが代々木上原の『竹韻飄香』です。

代々木上原といえば、言うまでもなく飄香創業の地。その代々木上原を去って10年が経ちますが、「代々木上原に戻ってきてほしい」という強いリクエストもあり、再び代々木上原に出店することになりました。もちろんこれは単なる原点回帰ではありません。カウンターとアラカルトをメインとして、カジュアルに楽しめる飄香という、他のお店にはない新しいコンセプトを持っています。

2021年にはもう一つ、新しい動きがありました。それが長らく飄香の顔となっていた麻布十番本店の閉店です。その頃の私は「まったく新しい四川料理を生み出したい」という想いに駆られるようになっていました。

繰り返しますが、飄香の基本コンセプトは、伝統四川料理です。日本人の多くが知らない本場成都の伝統四川料理を皆様に振舞いたいという想いは、今も変わりません。一方で、日本の環境もこの10年で大きく変わりました。四川料理は以前よりもポピュラーになり、伝統四川料理に近い料理を提供するお店も増えました。

飄香は伝統四川料理をできるだけ忠実に再現することに拘ってきましたが、コロナ禍の中で思考を巡らせるうちに、新たなる解釈に至ります。

四川料理は、決して保守的な王宮料理ではありません。今では四川料理を象徴する唐辛子も、大航海時代に南米から渡ってきた香辛料で、元々中国にはありませんでした。19世紀の欧米列強の進出とともに、四川料理には西欧料理の食材や調味料が加わりました。つまり四川料理には「時代とともに進化し続ける」「新しい発想を柔軟に受け入れる」という遺伝子が組み込まれているわけです。

四川料理の数奇な歴史に想いを馳せながら、私は「伝統四川料理の未来を創る」というコンセプトで、従来の飄香とは異なる「新しい伝統四川料理」を追求したくなりました。その表現の場が、2022年7月にオープンした広尾本店です。

広尾本店ではアラカルトを廃し、コースも1種類だけにしました。18時半の一斉スタートとし、料理を味わうことに集中していただく環境を作りました。他店舗と同様、あるいはそれ以上に、器や内装にも徹底的にこだわりました。主役となる料理は、これまで培ってきた本場成都の伝統四川料理の手法をベースにしつつ、私なりに独自に解釈した、舌にも目にも新しい四川料理を描き出してみました。

伝統四川料理の王道を受け継ぐ銀座三越店と六本木ヒルズ店。アラカルトとカウンターでカジュアルに楽しめる代々木上原店。そして四川料理の新時代を切り開く広尾本店。コンセプトが異なる4つの店舗を運営しながら、伝統四川料理ならではの美味しさと驚きを、引き続き日本の皆様に提供していく所存です。

飄香の挑戦はまだまだ続きます。これからもご注目いただければ幸いです。

お店と料理

飄香のお店で伝統四川料理をお楽しみください

広尾店のイメージ
  • 東京都渋谷区広尾5-19-1 HIROO VILLAGE 1F-2
  • ディナー 18:30-22:30 (18:00より入店可能)
  • 定休日  毎週日曜・月曜
銀座三越店のイメージ
  • 東京都中央区銀座4-6-16 銀座三越 12F
  • ランチ  11:00 ~ 15:30 (L.O. 15:00)
  • ディナー 17:00〜21:30(L.O20:30)
  • 定休日  銀座三越に準ずる
六本木ヒルズ店のイメージ
  • 東京都港区六本木6丁目10-1
    六本木ヒルズ森タワーウェストウォーク 5F
  • ランチ  11:00 ~ 15:00 (L.O. 14:30)
  • ディナー 17:00〜 22:00 (L.O.21:00)
  • 定休日  毎週水曜日
代々木上原店のイメージ
  • 東京都渋谷区上原1-17-14 LAビル1F
  • ランチ  休業中
  • ディナー 18:00 ~ 22:30(L.O21:00)
  • 定休日  毎週月曜日・火曜日

飄香の魅力

伝統四川料理を追求する飄香のこだわり